井原富生が布施万代百貨店内のジュエリートクヤに入社。
これをきっかけに宝飾業界に入る。
ジュエリートクヤが福井市に移転。
長女あゆみが生まれたのを機に独立。
当初は、外商・催事・訪問販売を中心に事業を展開。
東大阪市布施本通商店街でじゅえりーいはらを開店する。
お客様の要望によりジュエリートクヤで仕込まれた宝石修理ジュエリーリフォームも始める。
開店3年目で類焼火災被災。
富生の長男一成がじゅえりーいはらに参加する。
ジュエリーの原型作り「ワックスモデリング」の製作を開始。
デザイン画を描きジュエリー製作を始める。
ジュエリー鋳造機を導入し18金プラチナジュエリーのキャスティング製作加工を始める。
「じゅえりー通信」の発行を始める。
ブランドジュエリーの修理を始める。
インターネットホームページ「作って・直せる・宝石屋さん」を立ち上げる。
ホームページのコンテンツなどから修理リフォームの問い合わせが増え、
全国からご依頼が届くようになる。
父子で「舞洲24時間リレーマラソン」に出場。
「となりの人間国宝さん」出演。
全国のお客様からのご依頼件数が年間1500件を超える。
第14回大阪淀川市民マラソンでサブスリー(3時間以内で完走)達成!
歴史街道丹後100キロウルトラマラソン初出場。
読売新聞の取材を受ける。
じゅえりーいはらFacebookを始める。
CADを導入。パソコンを使ってのジュエリー制作を始める。
スマホ対応のWebサイト制作を始める。
3Dプリンターを導入。コロナ禍の中、ジュエリー制作の練習にいそしむ。
じゅえりーいはらInstagramを始める。
レーザー溶接機を導入。溶接修理が迅速に行えるようになる。
とみおちゃん3週間入院。
井原一成の嫁ゆみっぺちゃんが、じゅえりーいはらに参加。
YouTube糸替え動画配信を開始。
丹後ウルトラマラソン10回完走の「TITAN」達成!
Webサイトリニューアル。ほとんどのページがスマホ対応となる。
じゅえりー通信
じゅえりーいはら動画集
職人の走歴
お役立ち情報・小技集
ジュエリー職人たち
マスコミ登場履歴
はじめまして、じゅえりーいはらの"井原富生"です。
東大阪の布施の商店街で商売をはじめて約40年です。
たくさんのお客様、職人さん、問屋さんのおかげで商いをさせていただいております。
若かりし頃、布施の万代百貨店の中の"トクヤ"という宝石店で勤めていました。
師でもあり社長であった親方に宝石屋として育てていただきました。親方の実家は西区江戸堀靭公園の北手にありました。親方のお兄さんもジュエリーに携わる仕事をされており東陽商事という会社でした。
私が丁稚だった頃から売るだけではなく修理加工の仕事も承っておりました。
当時も修理加工などを請け負っている店は少なく、修理させて頂くとお客様には本当に喜んでいただけました。
どうして修理加工などを請け負っている店は少ないのかといいますと、ジュエリーはハンドメイドで一点物が多く、
また宝石・構造・加工法・金属の種類によって、どこに危険が潜んでいるのか熟練しないとわからないことが多く、
それに販売することに比べると、危険が高いわりに儲からないからではないでしょうか?
それと、失敗してしまうととても怒られます(笑)
販売することは非常に景気に左右されますが、修理加工は比較的安定してお仕事をいただけます。
不況風吹き荒れる中でも、ジュエリーの商売を続けさせていただけているのも、
お客様はもちろん親方のおかげかなぁと考えたりします。
宝石というものは永遠性のあるものです。
買われた時の価値もさることながら、その宝石と過ごした時間が長ければ長いほど、お客様の宝石に対する価値が増していくようです。
そして、その宝石は子へと孫へと受け継がれてゆく。
その過程において修理・加工はなくてはならないものです。
たとえ人口石のキュービックジルコニアだったとしても、お客様にとって大切な宝石です。
宝石とは何万年何億年という長い歳月をかけて地球が育んだ宝物であると同時に、お客様の手もとで長い歳月を経て、想い出という付加価値を育んでゆくものです。
宝石というものは人生の節目で手に入れられる、もしくは受け継がれてゆくものです。
誕生日・結婚・出産・入学・卒業・就職・成人と、想い出となるものです。使えば手入れが必要なのは当たり前のことです。
「修理・加工・手入れ・リフォームさせていただくことは、宝石商として当たり前のことである。」と、親方から教えられました。
他のお店で買われた物でも、外国で買われた物でも、出来そうなものは一生懸命努力します。
出来なかったらごめんなさい。どうぞお気軽にご相談下さいませ。
宝石業界の片隅で長年商いをさせていただいておりますが、お客様が笑顔で機嫌よくジュエリーを身に着けていただきたい。
どこで買ったものでも、『井原にもって行けばなんとかなるだろう。どうにかしてくれるだろう。』と。
宝石に関するお客様の悩みを解決することが私たちの使命だと考えております。
どうぞお気軽にご相談ください。たまには指輪も買ってくださいね。(笑)
こんにちは。じゅえりーいはらの職人、井原一成です。
主に、ジュエリーリフォーム、ジュエリー修理をしています。お客様のジュエリーにまつわるお悩みを、解決するべく努力しております。
どうぞ、お気軽にご相談下さい。
物を造るということは、腕も関係しますが、やはり、お客様のコミュニケーションが大切です。それは、職人仲間で一緒に仕事するときもそう。
ジュエリーというと、一人の職人で1個1個作っていると思われがちですが、
少なくて2人、多いと5人以上の職人の手を経て、1個のジュエリーを作るのです。
お客様も含めた全ての人が上手くコミュニケーション出来ないと、良い物は出来ないと思う今日この頃です。
5歳の頃平野区に引っ越しし、母が美容室を開店する。年末などは朝早くから夜中まで本当によく働く母親で、料理も上手く家事もきちんとこなしていた。
大阪市立喜連小学校に入学。手伝いでパーマのロットを洗うのがイヤでしょうがなかった。急いで遊びに出かけようとして、店の入り口のガラス戸に飛び込みアゴを7針縫う大けがをする。その傷は今でも残る。
楽しい少年野球に明け暮れた小学校時代。
少年野球と同じつもりで入部した中学校の野球部。先輩の世話をするのが納得できず反抗し、しごきまくられ1年で退部。
自由な校風の東住吉高校に憧れ、「人に出来て俺に出来ないわけがない。」と落ちこぼれから猛勉強のすえ合格。定期テストで85点取ったときの英語教師の驚きの顔が忘れられない。
憧れの高校に入学するも、勉強について行けず授業中もひたすら読書の日々が続く。
放課後は父の店でアルバイトするようになる。日当は1日1000円。。。お金がもらえるのが嬉しく喜んで行ってました。
大阪芸術大学進学を決意。漠然と、父がたずさわるジュエリーの世界に進みたいと考え、デザインを勉強するために大阪芸術大学に進学。
必死で身に着けたデッサン力(観察力)が、現在の仕事に大いに役立つ。
卒業後迷うことなくじゅえりーいはらに就職。門前の小僧式に仕事を憶える。父は仕事を教えてくれない。言われることは、行け!やれ!のみ。あとは自分で考えろ、とにかく、行動しろとたたき込まれる。
即実践!!行動派のルーツは、この教育方針にあるかも??
工具店のつてで宝石職人組合技稜会に入会し、現代の名工丸川隆英氏、なにわの名工多田孝之氏に出会い、最高峰の宝石職人達の仕事に触発され、ジュエリー加工技術に磨きをかける。
ジュエリーを製作・修理・加工・販売して、お客様の喜びを知ると同時に、お客さんの「タンスの肥やし」という声を聞くたびに心が痛んでいました。
流行、世代が変わると、デザイン、嗜好は変わるものです。
ジュエリーは親子3代受け継いでいけるものです。女性に笑顔で毎日を過ごしていただきたい。斉藤ひとりさんいわく「宝飾品オシャレは女性にとってなくてはならないもの」なのです。
地元大阪のみならず、全国の宝石で悩むお客様の悩みを解決し、今までに34000点以上もの(2026年1月現在)ジュエリーを美しく蘇らせ、
東大阪地域一番店となり、「作って、直せる、宝石屋さん。」と呼ばれ、その活動が「よみうりテレビ・大阪ほんわかテレビ」など、マスコミに大きく取り上げられた。
私生活で熱中していることは体を動かすこと。
マラソンのトレーニングで、月間走行距離は300キロを超える。
フルマラソンのベストタイムは2:54:18達成。
歴史街道丹後100キロウルトラマラソンを9時間以内に完走のサブ9に挑戦中
100キロマラソンベストタイム 2013年第13回歴史街道丹後ウルトラマラソン100キロ一般の部 9時間16分17秒30位/1170名
走る合間にキャンプやスキーを楽しんでいます。
はじめまして。「じゅえりー通信・編集長の嫁」の有美と申します。
店では「ゆみっぺちゃん」と呼ばれています。これからよろしくお願いします。
2022年からじゅえりーいはらに居ります。
趣味は「ベランダでハーブを栽培して、キッチンで料理すること」と「週に4回、朝6時からヨガをして体を整える」ことです。
「無抵抗不服従」が私の「モットー」です。(笑)
私は長年、コーヒー豆販売の会社で仕事をしていました。
以前、この会社の店舗がじゅえりーいはらのそばにあり、そこでも勤務していました。するとそこに「もっと美味いコーヒーは無いんか?」と現れたのが主人です。
「失礼な人だなぁ…」と思いながらも、負けず嫌いの私は店で一番高いブレンドコーヒーを勧めて「ドヤ顔」をしてみました。すると次の来店時に「美味いやんけ!」と褒めてくれたのを覚えています。
同い年ということもあり、少しずつ仲良くなったのが20年以上前のことです。
そんな「ゆみっぺちゃん」は、Youtubeで「じゅえりーいはらチャンネル」を始めました。
このチャンネルは、じゅえりーいはらの日常や、ジュエリー修理やリフォームの情報を、ゆるーく、楽しくお届けしていきます。
最近はお客様のジュエリーのお直しの様子などをご紹介しています。
「使おうと思ってケースを開けたらネックレスが切れていた…」「ちょっと長すぎて使っていないネックレスの長さを調整したい!」「真夏に使ったら色が変わってしまった」
というような、真珠のネックレスのお直しをアップしています。
身近なお悩みの解決につながる動画をぜひ、ゆるーく、楽しくご覧ください。
こんにちは。じゅえりーいはらの職人、井原一成です。
ウチのオカンの話をします。
オカンは以前、平野でパーマ屋をやっておりました。それまでは近鉄長瀬駅前のローズという美容室で働いていたそうです。(当時は近鉄長瀬駅前には映画館がありました。)
そこで働いていた頃のパーマ液などの材料屋さんで、寿町の松代商店さんの紹介で、やめたパーマ屋さんをそのまま引き継いで縁もゆかりもない平野でパーマ屋をはじめたのです。
オカンに向かってはまだ、オカンとはよう呼びませんが、小さいときはちゃんとお母さんと呼んでいました。子供が生まれてからはおばあちゃんとか、イソエちゃんとか呼んでいます。
ここではオカンと呼んだほうがいいかなと思いそう呼ばせてもらいます。
幼いころは家で商売をしていることをあまりええように思っていませんでした。
なぜかというと、家には入り口がひとつしかなく、家に入るときも出るときもオカンの横を通り、お客さんの横を通らないといけなかったのです。当たり前のことですが、挨拶をしないで通ると怒られました。
心に後ろめたいことがあると、オカンの横を通る時にカニ歩きになり、よく悪事を摘発されました。
昔のパーマ屋は、年末になると休みもなく、本当に忙しく、大晦日などは年を越すところまで仕事をしていました。
パーマ屋はなんちゅう大変な仕事やと思いました。
妹が生まれるその日も、オカンは店でパーマをしていました。大きな紙袋を持たされてオカンと病院に行ったのを憶えています。
どんくさい私は、オカンから逃げればいいものを、よくオカンにつかまり手伝わされました。
パーマで使うロットを洗えとか、ペーパーを広げろとか、タオルを脱水機にかけろとか、床の髪の毛をはけ、晩御飯のコロッケを買いに行け、とか手伝わされました。
とくに8才年の離れた妹をよく保育園に迎えに行かされました。そして次の日には学校で「子連れオオカミ」と呼ばれるようになりました。
忙しくしていた割には質素な生活でした。そのうちオヤジも店を出し、じゅえりーいはらを始めました。
うちのオヤジは、オカンが店に来ると必ず「商品の半分はお前のもんや。好きなもん持って帰り。」と。こう言われると持って帰りにくいようで(笑)、売れ残りを3つしか持って帰っていません。
あまり昔のことは話してくれませんが、オカンのおかげで今店があるんかな~と思います。
家で商売していると、引っ越しするわけにはいきません。
子供心に「友達は自分の部屋がある普通の家やのに、なんで俺はぼろい家で自分の部屋もないのか」と思ったものです。
オカンがパーマ屋をやめるにあたっては、誰も何も言いませんでした。「そうか。」てなもんです。
小さい店ではあるけれど、それほど忙しいわけではないけれど、女ひとりだけで商売をし続けるのは大変なことだった思います。
普段は一見大人しそうですが、怒らすと一気に沸騰して非常に怖く、3回くらいしか本気で怒らせたことはないと思います。
オカンは兵庫県浜坂の出身で、地元中学卒業後京都に出て、美容師見習いで住み込みで働きながら学校に行かせてもらい、その京都でオヤジと出会ったそうです。
その当時からオヤジはナンパの達人だったのでしょう。
なかなか面と向かってはよう言いませんが、長い間お疲れ様でした。
私が結婚して家庭をもって子供をもって思うことは、ウチのオカンは精一杯ガンバっとったんやなあと思います。
自分のオカンには面と向かってよう言わんので、読んでくださっているたくさんのオカンに、息子さん娘さんの代わりに「ありがとうございます」と言わしてもらいます。
おかあさん。ありがとうございますお疲れ様でした。
最後まで読んでくださいましてありがとうございます